郡上八幡城を守る「結界」とは!? 〜鬼門・裏鬼門から読み解く、城下町のつくり方〜

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郡上八幡城といえば、天守からの眺望と、秋の紅葉。訪れた人の多くは、そこで満足して山を下りていきます。けれど天守の中には、少しだけ毛色の違う展示があります。そこに描かれているのは、郡上八幡城を中心にした「鬼門」と「裏鬼門」の図。北東の鬼門には、八坂神社。その正反対、南西の裏鬼門には、岸剱神社。城を真ん中に置いて地図をなぞると、八坂神社 ― 郡上八幡城 ― 岸剱神社という、目には見えない一本の線が浮かび上がります。

石垣の外側に、もうひとつの守りがあった。そう考えると、いつもの郡上八幡城が少しだけ違って見えてきます。今回は「風水」と「鬼」という視点から、郡上八幡城と城下町を歩いてみます。

郡上八幡城を守っていたのは、石垣だけではなかった

城を守るもの、と聞いて思い浮かぶのは石垣、堀、そして武士でしょう。けれど昔の人が恐れていたのは、敵だけではありません。火災。疫病。天災。飢饉。そして、理由の分からない不吉な出来事。刀では斬れないものが、いくらでもありました。だから城や町をつくるときには、地形の有利不利だけでなく、方角と神仏の力を借りて災いを避けるという考え方も、設計の一部として大切にされてきたのです。

その代表格が「鬼門」でした。鬼門とは北東の方角。古くから災いが入り込む方角とされ、その正反対の南西は「裏鬼門」と呼ばれます。郡上八幡城内の展示では、この考え方にもとづき、鬼門に八坂神社、裏鬼門に岸剱神社を置いて城を守ったと紹介されています。刀と石垣で守り、方角と祈りでも守る。昔の人にとっては、そのどちらもが等しく「城を守る」ということでした。

なぜ鬼は、北東からやってくるのか

そもそも、なぜ「鬼門」という物騒な名前なのでしょう。昔は方角を十二支で表しました。北東はちょうど、「丑寅(うしとら)」にあたります。

丑は牛、寅は虎。そして、私たちがよく知る鬼の姿は、牛のような角を生やし、虎柄のパンツをはいている。鬼が来るとされた「丑寅」の方角が、そのまま鬼の姿かたちになった、といわれています。角もパンツも、方角から生まれたわけです。

節分で「鬼は外」と豆を投げる、あの鬼。昔の人にとって鬼とは、物語の中の怪物であると同時に、病や災害といった人の力では説明のつかない災いそのものでもありました。だからこそ、鬼が入ってくるとされた方角を、神仏の力で塞ごうとしたのです。

郡上八幡城が建つ山の、古い名前

ここでひとつ、思わず膝を打つ話を。郡上八幡城が建つ八幡山には、「牛首山(うしくびやま)」という古名が伝わっています。しかもこの山は、城下町から見ればちょうど北東──丑寅の方角にそびえています。

丑寅の方角に立つ、牛の名を持つ山。そこに城がある。もちろん、これを風水と結びつける確かな証拠があるわけではありません。単なる偶然かもしれません。それでも、「災いの入り口とされた方角に、町を見張る城を据えた」と読んでみると──城下町の風景が、急に物語めいてきます。

天守の屋根裏に、御札が納められている

郡上八幡城の風水展示には、もうひとつ興味深い話が紹介されています。天守の屋根裏に、八幡神社の御札が納められているというのです。

八幡神社は、吉田川と城のあいだに位置し、代々の城主の祈願所とされてきた社。城主が奉納した鎧や刀、絵馬が今も伝わり、「郡上八幡」という地名の由来にもなっています。

町の外周には、鬼門を守る神社。そして城の芯には、御札。外から囲い、内から守る。二重の構えです。見上げても御札は見えません。けれど「この屋根の上に、まだ守りがある」と知って天守に立つと、木の匂いのする薄暗い階段の感じ方まで、少し変わってくるはずです。

13の寺は、なぜ辻の突き当たりに立っているのか

郡上八幡の守りは、二つの神社だけでは終わりません。城下町を歩くと、驚くほど寺に出会います。狭い町並みのなかに、13もの寺。そして歩いているうちに、あることに気づきます。

道の突き当たりに、必ず寺がある。

これは偶然ではありません。郡上八幡城の城下町が今のかたちに整えられたのは、寛文7年(1667年)、遠藤常友による大改修のとき。このとき近在の寺院が城下に集められ、「八家九宗」と呼ばれる構成をつくり、辻の突き当たりに配置されて、戦時の防禦にあてられたと伝えられます。

寺は広い境内と大きな建物を持ちます。突き当たりに据えれば、敵の直進を止め、味方の拠点にもなる。信仰の場所であると同時に、町を守る装置でもあったわけです。
同じ発想は、足元にもあります。町中を巡る水路は生活用水であると同時に、大火を繰り返さないための防火設備でもありました。

城主・遠藤慶隆の時代に開かれた寺も少なくありません。慶長6年(1601年)の長敬寺、慶長8年(1603年)の大乗寺、慶長11年(1606年)の慈恩禅寺。ほかにも洞泉寺、最勝寺、安養寺など、城下には次々と寺が構えられていきました。

整理すると、郡上八幡城を中心に、
•鬼門と裏鬼門を守る神社
•辻の突き当たりを押さえる13の寺
•町中を巡る水路という、火に対する備え

という、何重もの守りが張り巡らされていたことになります。「寺が多い町だな」で通り過ぎていた道が、設計図の一部として見えてくる。郡上八幡の城下町歩きが面白いのは、ここです。

京都にも、同じ発想の町がある

鬼門を意識した町づくりは、郡上八幡だけのものではありません。代表格が京都です。平安京の北東・鬼門には、比叡山延暦寺。その反対の南西・裏鬼門には、石清水八幡宮。どちらも都を守護する存在として、長く信仰されてきました。規模はまるで違います。それでも、

•京都を中心に、鬼門と裏鬼門を守る
•郡上八幡城を中心に、鬼門と裏鬼門を守る

という発想には、はっきりと重なるものがあります。郡上八幡が「奥美濃の小京都」と呼ばれるのは、間口の狭い町家が並ぶ町並みが似ているから、というだけではないのかもしれません。都市をどう守るかという考え方まで、しっかり写し取られているのです。昔の町づくりでは、道を通し、堀を掘るだけでなく、神仏をどこに置くかまでが都市設計でした。

郡上おどりは、寺社の祭礼の夜に踊られている

そしてこの信仰は、町の配置だけに残っているのではありません。夏の郡上八幡を象徴する郡上おどりにも、神社や寺院との深い結びつきがあります。

郡上おどりは、町内各所の縁日にちなんだ「縁日おどり」として、30夜以上にわたって開催されます。岸剱神社川祭、慈恩禅寺弁天祭、日吉神社祖霊祭──日程表を眺めると、寺社の名前がずらりと並びます。そう、鬼門を守る八坂神社も、裏鬼門を守る岸剱神社も、おどりの夜の名前として今も生きているのです。

すべての郡上おどりを単純に「神への奉納」と言い切ることはできません。それでも根底には、神仏を祀り、先祖を供養し、町の平穏を願いながら踊る文化があります。2022年にユネスコ無形文化遺産に登録されたのは、この「暮らしとともにある踊り」そのものでした。

城を神仏で守り、町を寺社で守り、夏になるとその寺社の祭礼に人が集まって踊る。風水の話から歩き出すと、郡上八幡城、城下町、郡上おどりまでが、一本の線でつながって見えてきます。

郡上八幡城は、結界の中心だったのか

もちろん、本当に鬼が北東からやってきたのかを確かめる方法はありません。けれど、郡上八幡城には鬼門と裏鬼門を意識したという伝承があり、その方角にはたしかに社があります。

城下には13の寺が、辻の突き当たりに構えています。天守の屋根裏には、御札が納められています。そして今も、寺社の祭礼の名を掲げて、夏の夜に踊りの輪ができます。こうして並べてみると、郡上八幡城が単独で町を守っていたのではないことが分かります。城、山、川、寺、神社、そして祈り。そのすべてを使って、城下町そのものを守ろうとしていた。町全体が、ひとつの結界だった──そんな姿が浮かび上がってきます。

郡上八幡城を訪れたら、天守からの絶景だけで満足せずに、ぜひ城内の「風水」の展示にも足を止めてみてください。そして最上階から町を見下ろしながら、こう想像してみる。「この町には、今も結界が残っているのかもしれない」見慣れた城下町の屋根の連なりが、少しだけ神秘的に見えてくるはずです。

結界の内側に、ひと晩泊まる

日帰りだと、この町は「昼の顔」しか見せてくれません。観光客が帰ったあとの城下町は、水路の音がぐっと近くなり、辻の突き当たりの寺の影が深くなります。ライトアップされた郡上八幡城が、山の上に静かに浮かびます。

水と翠は、一日一組限定の町家の宿。結界の内側に身を置いて、夜の郡上八幡を歩いてみてください。昼間に眺めた「見えない線」を、足で確かめる時間になるはずです。